別記事で、
今回は、同じく真如苑に通っていて、
ちなみに、僕もとても可愛がってもらっており、実際に僕が呼んでいるのと近い形です。
目次
Kちゃんについて
思いっきり戦争世代のおばあちゃん。既に年齢は90代。
流石に少し腰は曲がってきているものの、県や市から贈られる(
¨100歳のお祝い金的なもの¨をゲットするべく、
「
叔母から真如苑に誘われ、自身に交通の足がないこともあり、
Kちゃんのハマり具合は?
結論から言うと、Kちゃんは
Kちゃんとは僕も年1回くらい会うのですが、
真如苑の話が特に出てくるわけではないのはもちろん、
「なんか、
ハマっている叔母とも行動を共にし、
これは、「それくらいの年齢の人だから、そもそも大きく変わることは無いんじゃね?」っていう以上の、
そもそもの性格や考え方に起因する理由があると思っています。
おそらく、結構レアなケースだと思うんですが、「
考えられる理由
節操がないから
Kちゃんは、良く言えば日本古来の多神教、悪く言えば(?)節操がなく、
手を合わせる対象であれば、
感謝することがあれば、道の草木にだって手を合わせるし、
要は、真如苑に行く理由をKちゃんに問うたとしても
「
自分では絶対行かない&行けないです。
つまり、
自分に芯がある
¨そもそも人生の大先輩にこんなことを偉そうに言うのはどうなのか¨
というのは百も承知ですが、Kちゃんは、結構自分の中に芯がある人です。
「自分はこう思う」というのを割とはっきり持っているので、
「接心でこう言われたけど、うちはそうは思わん」
むしろ、
年配の人のあれこれにに対して、年端もいかない人が口を出すこと自体、矛盾している側面もあると思います。
その点が、自分の中に確固たる考えがないゆえ、
Kちゃんが真如苑をはじめとする宗教にガッツリハマっていない理
見返りを求めていない
先述の通りKちゃんの信仰の目的は、自分が有難いと思った時、
対象に対して、自分のその思いを伝える(?)ことです。
つまり、そのことによる自分への見返りをまるで求めていません。
それが本来の形だとは思うんですが、ここに関しても、
叔母は、おそらく真如苑のテーマの1つでもある「
もちろん、それ自体は悪いことではないんだと思います。
でも、叔母の場合、その「功徳を積む」とやらの目的は、
¨これだけ徳を積むことをしたのだから、
要は、むちゃくちゃ不純な動機であるわけです。笑
- 人のために無償の愛を
- 自分の身を清めたい
みたいな崇高な精神とは、
そうなってくると、つまりはキリが無くなってくるんですね。
「拝んだからその分量だけ良いことが起きる、、」
まだ足りない、
その点見返りを全く求めていないKちゃんは、
そこから先の深みにハマる理由が元々無いわけです。
まとめ
同じ血縁上にいて、ある程度は同じような行動を取っている2人で
これだけ差があることもあるという例としてお話してきました。
Kちゃんの方が、本来の意味的な「宗教」
一概には言えませんが、叔母のような性格に近い人ほど、
参考になる点があれば嬉しいです。